こんにちは、豊田市美術館の「クリムト展」が楽しみなさかぐちです。
さて、中学生の夏期講習が迫ってきて、準備が大変です。
しかしながら、ほぼ整いました。
あとは、出たとこ勝負で(笑)、中学生の塾生+講習生の子どもとちと学力アップを図ります。
この夏の時期によく出る質問が
「どうして勉強しなきゃならないんですか?」
*夏休みになって時間があることもあって、こういう質問が出るんだと思います
というものです。
この質問、講師になりたての頃は困ってました。何と答えてよいのやら。。。
ただ、ここ最近は、ある作家の短編の一部の言葉をお借りして、答えています。
太宰治の「正義と微笑」からの一節です。
もう君たちとは逢えねえかも知れないけど、お互いに、これから、うんと勉強しよう。勉強というものは、いいものだ。代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまえば、もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、大間違いだ。植物でも、動物でも、物理でも化学でも、時間のゆるす限り勉強して置かなければならん。日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。カルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記していることでなくて、心を広く持つという事なんだ。つまり、愛するという事を知る事だ。学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、必ずむごいエゴイストだ。学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。そうして、その学問を、生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん。ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ! これだけだ、俺の言いたいのは。
『正義と微笑』 太宰治
カルチベートという言葉が難しいのですが、「深く耕された」というような意味合いを持つ言葉で、私自身は「成熟した」と訳しています。
ここ最近、政治経済、文化の面に至るまで、「こんな立派な役職についている人が、ここまでずさんでいい加減、幼稚な人だったとは…」と絶句してしまうことが多々あります(具体的に挙げないですが、お察しください)。
毎日、うんざりする数の謝罪会見を見ている気がします。
でも、まだ謝罪していればマシなほうで、中には自分の過失を開き直ったり、責任を転嫁したり、恫喝の材料に使う人間もいるようです。
やっていることが幼児以下なんです。中途半端に小知恵がついてるだけ、さらにひどい。
人間が代数や幾何を、外国語を学ぶのは、
「まだ自分には到達しえない遥かな境地があるのだ」
ということを学問を通じて知ることにあると思います。
目の前の教科書の中にすら、遥かに広い世界がある。自分のちっぽけさを知る。
世界は広く、深いが、自分は小さく、無知である。
そういう「相対化」を通じて、人は自らの幼児性を脱却し、さらに自分の分限を知ることを通じて、周囲の人と協調・協業できる「成熟した」市民へと変わっていくと私は考えています。
「なぜ学習するんですか?」
に対する僕なりの答えは、
「成熟した人間になるため」
です。もし、保護者さまで、お子様の「なぜ勉強しなければいけない?」と聞かれたことがあったら、太宰の言葉を教えてあげるのはいかがでしょうか。
かなり、説得力はあると思います。