ちょっとだけ昨日、一昨日の記事に意見を書きます。
私はサッカーだけの話ではなく、日本社会そのものに一つの癖があるように感じています。
それは、
一度「空気」ができると、それに逆らうことが極端に難しくなること。
そして逆に、失敗すると必要以上に自信を失い、今度は自己否定へ振れやすいことです。
歴史を振り返れば、極端な例として豊臣秀吉の外征、近代以降の急速な富国強兵路線、戦後の「一億総懺悔」、高度経済成長期以降の「経済で勝てばよい」という価値観、そしてバブル崩壊後の長い停滞期における過剰な悲観――。
もちろん時代背景は全く違います。
ただ共通して見えるのは、
熱狂と自己否定の振れ幅が大きく、「中庸」や慎重な議論が軽視されやすい傾向
ではないでしょうか。
言い換えるなら、
「今はまだ難しいのでは?」
「地道に積み上げる方が大事では?」
「拡大より成熟が先では?」
こうしたブレーキ役の声が、時に消極的、悲観的、空気を読まないものとして扱われやすい。
私はこれはスポーツ界にも見られると思っています。
日本代表が勝てば、
「史上最強」
「優勝できる」
負ければ、
「日本サッカーは終わった」
その間にあるはずの、
“かなり強くなった。でも世界一まではまだ距離がある”
という見方は、案外語られません。
【中庸について】
① 中庸の由来:儒教の古典『中庸』
「中庸」は中国古代の儒教思想に由来します。
元々は四書(ししょ)と呼ばれる儒教の重要文献の一つ、
中庸
という書物の名前です。
作者は直接は不明ですが、伝統的には孔伋(孔子の孫)に由来するとされます。
そして後に朱熹が整理し、東アジア思想の中心概念になりました。
江戸時代の日本の教育(藩校など)でもかなり重視されています。
② 「中」と「庸」は何を意味する?
中(ちゅう)
真ん中、平均、半分…
ではありません。
本来は、
偏らないこと
その場に最も適した状態
を意味します。
つまり「50点」ではない。
状況によっては厳しく怒ることが中であり、
別の場面では許すことが中。
庸(よう)
こちらは意外ですが、
常に使われるもの
日常的・普遍的
という意味があります。
つまり「中庸」は直訳すると、
いつでも状況に応じて最も適切なバランスを保つことになります。
③ 中庸=妥協・事なかれ主義、ではない
ここが最大の誤解。
多くの人は、
中庸=ほどほど
中庸=どっちつかず
中庸=波風立てない
と思っています。
実は逆です。
儒教的な中庸は、感情や空気に流されず、最適点を探し続ける高度な判断力
を指します。だから難しい。
例えば教育なら。
極端①:
「勉強は自由。好きにやればいい」
極端②:
「毎日5時間やれ。根性だ」
中庸:
「学年×10分+20分を目安に、80%達成でも継続を優先」
④ 『中庸』の有名な考え方
有名な言葉があります。
喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中という。
発して皆節に中る、これを和という。
ざっくり訳すと、
感情が暴走していない状態を「中」という。
感情が出ても適切に調和している状態を「和」という。
つまり理想は、
感情がない人ではなく、
感情を適切に扱える人です。
日本は熱狂と自己否定を往復しやすい
史上最強→終わった、を繰り返す。中庸が軽視される
という主張でした。
もし中庸を本来の意味で使うなら、
こう書くと深みが出ます。
私は日本社会に時々、「熱狂」と「自己否定」を往復する癖を見る。
だが儒教のいう中庸とは、
単なる中間や妥協ではない。
状況を冷静に見つめ、
過大評価も過小評価もしない地点を探し続ける態度である。
日本サッカーは30年で奇跡的な成長を遂げた。
だからこそ私は、
「史上最強」でもなく
「まだ弱い」でもなく、
“かなり強くなった。しかし成熟にはなお時間がいる”
という中庸の視点を持ちたい。と考えています。

